本日は幕末の偉人、司馬遼太郎は「明治の父」と記した、徳川幕臣小栗上野介忠順(1827~68)の話です。
読売新聞3月15日の文化面に群馬県高崎市は「小栗終焉の地」として紹介されていました。
【引用】
1860年、日米修好通商条約批准書交換の使節として渡米。幕府の要職を歴任し、横須賀製鉄所建設や軍政の近代化を進めた。
だが、新政府側への抗戦を主張するなどして罷免され、68年3月、領地だった現在の群馬県高崎市倉渕町権田地区に隠とん。そのわずか2カ月後、新政府軍に捕まり、十分な調べもないまま首をはねられた。
小栗の墓がある同地区東善寺の住職で、小栗に関する著作もある村上泰賢(たいけん)さんは「日本の近代化は明治になって急に進んだのではない。幕末に下地を作ったのが小栗様だった」と話す。地元住民は畏敬の念を込め、今も「小栗様」と呼ぶ。
小栗終焉の地には、昭和初期、住民らが「罪無くして此処に斬らる」と刻まれた顕彰慰霊碑を建てた。田んぼの中にぽつんと立つ石碑の前では、川のせせらぎが聞こえる。時代に翻弄されながらも信念を持ち、未来を見据えた男の悲しさと威厳が伝わってくるような静けさだった。
(文化部 前田啓介)
小栗忠順を調べて見ると、幼名は「剛太郎」と言い、周りからは暗愚で、いたずら好きの悪童と思われていたようです。しかし、成長するにしたがって文武において頭角をあらわし才能豊かに育ち14歳のころには自分の意志を率直に主張するようになった、ということです。
官職に就くと、そのはっきりとした物言いが疎まれて幾度か官職を変えられるのですが、そのたびに才能を惜しまれて戻されています。
大隈重信は、後に「小栗は謀殺される運命にあった。何故なら明治政府の近代化は、そっくり小栗のそれを模倣したものだから」と語っており、明治新政府は小栗の存在を抹殺したかったのではないかという説もあります。
また東郷平八郎は自宅に小栗貞夫(小栗忠順の娘婿)と息子の又一を招き、「日本海海戦に勝利できたのは製鉄所、造船所を建設した小栗氏のお陰であることが大きい」と礼を述べ、又一には、「仁義禮智信」としたためた書を贈っています。
参考資料:
小栗上野介忠順
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