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戦国時代を終らせた、関ヶ原の戦い [雑学としての歴史]

1600年(慶長5年) 関ヶ原の戦い

天下分け目と言われる関ヶ原の戦いは、1600年(慶長5年)10月21日、豊臣恩顧の武将が東西に分かれ、徳川家康を総大将とする東軍と、毛利輝元を総大将とする西軍との間で行われました。
秀吉が亡くなってから2年後になります。

関ヶ原の戦い自体は6時間ほどで決着がついていますが、この戦いに至る豊臣家の内紛は前哨戦としてあったようです。
豊臣家の内紛でまず挙げられるのが、石田三成に人望がなかったことです。
秀吉に忠誠を尽くすあまり官僚的高慢さが目立ち、三成を嫌っていた武将は多くいたようです。
個人的には三成の気持ちがよくわかるので気の毒だなと思います。

三成は秀吉が最も信頼していた「文治派」の中心的存在で、軍事を担当する「武断派」を監視し報告する立場でした。三成は武将の行動のありのままを報告することが多く、その報告を受けた秀吉が賞罰を与えるという状況でした。
武将によっては、意に反した報告をされ秀吉の怒りを買い領地を没収されるなど、怨まれることも多かったのです。
関ヶ原の戦いで寝返った小早川秀秋は、朝鮮出兵の失態を三成に報告され、秀吉から領地を没収されたことが大きく影響しています。

このように、両者の対立が顕著に表れたのが2度の朝鮮出兵でした。
第一次出兵で三成は船奉行を務め、日本軍を朝鮮に渡航させる役割を担いました。追撃してきた明軍にも応戦するなど「碧蹄館(へきていかん)の戦い」の勝利に貢献もしています。
第二次出兵では、秀吉の死後の引き上げ業務を行っています。
難戦を経験した武将たちから三成は内地で楽をしていたと思われ、両者の間に感情的な対立が生じるようになっていました。

その上明との講和で小西行長の意見に従い、「加藤清正が講和を妨害している」と報告したため、清正は講和を望む秀吉の怒りに触れました。
清正は“告げ口”をした三成を憎み、「南無八幡大菩薩、身命に誓って、治部(ぢぶ=三成)とは一生仲直りなどせぬ!切腹することになろうとも、ヤツとの仲直りだけは絶対にせぬ!」といったとされます。

三成自身は秀吉に忠誠を尽くし、秀吉の遺児秀頼を立てて豊臣政権を維持することを考えていましたが、政権内部の対立、秀頼がまだ7歳という若年、三成には人望がないなどをみても、家康による関が原への戦いがスタートしていたと言えます。

秀吉の死から約1年後、五大老の重鎮で唯一家康に対して影響力を持っていた前田利家が亡くなると、家康は自分以外の大老を郷里に戻し、ますます権勢を拡大していました。

豊臣家で最も力を持った家康は、1600年、各地の大名に年賀の挨拶を求めましたが、この挨拶を会津の上杉家だけは断りました。
このことは「上杉景勝に謀反の疑いがある」と家康に報告され、かねてより上杉家が無断で軍備の増強などを行っていたことに対する釈明を求めるのですが、上杉家の重臣・直江兼続は次のように返信します。

「くだらない噂を信じて謀反を疑うなど子供のようなもので、釈明の必要もない。軍備を進めているのは東北の大名に対する備えをしているだけだ。そちらは京都で茶器でも集めているんだろうが、こちらは田舎者ゆえ武具を整えるのが武士だと思っている。 だいたい自分が勝手に婚姻の斡旋などをしていたくせに、人に違約違反を言うのはおかしい。前田家をお仕置きしたらしいが、大層なご威光だ。あらぬ噂を真に受けて汚名を着せようというのなら、兵を率いて出迎えてやるから、いつでもかかってこい」
引用元:わかりやすい関ヶ原の戦い

これは「直江状」と言われる挑戦状で、関ヶ原の戦いの引き金にもなっています。
徳川家康は大軍を率い上杉討伐に向かうのですが、ここで三成は毛利輝元を総大将にして家康打倒の兵を挙げました。この報を受けた家康はすぐさま引き返し、三成の西軍と美濃国関ヶ原での戦いが行われることになりました。

前述したように、最大の兵力を持っていた小早川秀秋の裏切りがあったことで、三成は窮地に追い込まれます。
また、西軍の総大将であった毛利輝元もほとんど動けないまま関ヶ原の戦いは終わっています。
これには毛利家の重臣・吉川広家が徳川家に内通していたことがあります。
家康とは「東軍が勝った後、毛利家の責任は問わない。領地もそのまま保証する」という約束まで取り付けていたといわれています。

三成の敗戦は決定的になり、徳川軍の総攻撃を受け敗走します。
三成は逃亡しますが、数日後に追手につかまり、小西行長らとともに京都引き回しの上、処刑されました。

明治時代に、日本陸軍の近代化に貢献したドイツの参謀将校メッケルは、関ヶ原の戦いの布陣を見せられて、「どっちが勝ったと思いますか」と聞かれ、それは石田三成だと答えたそうです。

もし輝元が戦場に出ていれば三成が勝っていたと言われています。
実際、家康の主力であった徳川秀忠軍は、中仙道を関ヶ原に向かう途中、上田城で向かえ撃った真田昌幸の猛攻にあって関ヶ原には間に合いませんでした。
しかし、現実には情報戦で家康の勝利は確定していたとも言えます。

信長、秀吉の政治を見てきた家康には、自分だったらこういう世の中をつくる、という構想があったように思います。
争いのない平和な世を目指したと思いますが、信長や秀吉の教訓があったからこそだと思います。

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