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学問とは現実を判断する力となる [西郷南洲翁遺訓]

四十一 非常時の心得

学問に熱心に取り組んで、古の書を読み、そこに記された聖人賢者の行いを心にとどめて、ふだんの暮らしを折り目正しく立派にするよう心掛けている人が、おります。

じつに結構であると思う。賢者の記録をただ覚えるだけでよいと思うているような浅はかな者と比べるまでもなく、大いに尊敬できる姿勢である。

しかるに、です。
そんな立派に見える人の中に、何事も起こらない安泰な日々にあっては立ち居振る舞いに細やかな気配りをしていながら、ちょっとトラブルが発生するや、とたんにオロオロしだすような人を、たまに見かけます。
これは情けない。

それではまるで、出来合いの「立派な紳士の振る舞いマニュアル」どおりに動いているだけの“カラクリ人形”のようなものでは、ありませんか。
カラクリ人形は、あらかじめ決められた動きは正確に出来る。しかし、ひとたびアクシデントが起こると、止まってしまうばかりである。それと同じようなものであります。
ふだんはまず起こらぬような突発的なトラブルに出会っても、泰然と事態に向き合って速やかに対処できる心構えがなければ、真に「聖人賢者を見習っている」とは、評せられぬでしょう。

トラブルやアクシデントに備える気持ちはふだんから持っていたいものです。

たとえば、数十人もの客人がにわかに訪ねてきてくれた場合を、考えてみましょう。
私の所では、数十人の客人の来訪などは、滅多にないことである。が、絶対ないとは言い切れぬ。故郷の若者たちが大挙して押し寄せ、私を間に置いて夜通し色々と語らい合うことも、あるのです。そうした日は、じつに楽しい時間を過ごせるものであります。

客人は、どれほどの数であろうと、やはり歓待したいものです。来てくれた人には等しく、楽しんでいってもらいたい。それが主人の偽らざる思いでありましょう。

しかし、である。
もてなしの気持ちがいくらあっても、肝心の椀や皿といった調度品が十分に備わっていなければ、ただオロオロするばかりで、満足に迎え入れてあげることはできないではありませんか。
客を迎え入れる道具類の備えがいつでも十分にしてあれば、客人の何人が訪ねてきてくれようとも、人数に応じて接待が出来るわけでしょう。

すなわち、です。
あらゆるトラブルや意外なアクシデントに見舞われようとも、その場を十分に切り抜けられるだけの備えを、ふだんから心掛けておくことが、肝要なのです。

もちろん、十分な備えとは、ただやみくもに蓄えておけばよいというものでは、ない。現実において考え得る範囲で、これを過不足なく備えるのである。
さきほどのたとえ話で申すならば、数十人の客人の来訪を想定するのは、たとえ滅多にないことでも“現実のアクシデント”として、ふだんより考えておくべきである。だが、千人の客人を心配するなどは、バカげた妄想である。千人の人間が我が家に一度にやってくるなど、有り得ない。椀を千個も買い揃えるなど、無駄遣いも甚だしい。

学問とは、このように「あらゆる現実に対処する判断力を身に付ける」ために、あるのです。
現実の備えとは何なのか、それを明確に見極める眼力を身に付けるのである。それが付いてこそ、どんな事態に遭っても心落ちつけて対処が出来る。
一方で、心配せずともよい妄想に惑わされる愚かさは、心から消し去れる。無意味な備えに多くのカネを掛けて無駄遣いをすることも、なくなるのです。

――と、西郷先生はこのようにお教えくださって、次の古語を書いてくださいました。

「文は、鉛槧(えんざん)にあらざるなり。
 必ず、事に処するの才あり。
 武は、剣循(けんじゅん)にあらざるなり。
 必ず、敵を料(はか)るの智あり。
 才智の在る所、一のみ」

この古語を言い直せば、次のようになりましょう。

「学問とは、文章を書くテクニックを身に付けることではない。
 必ず、どんな事態に遭っても切り抜ける判断力を、身に付けることなのである。
 武芸とは、剣や楯(たて)を使いこなすテクニックを身に付けることではない。
 必ず、どんな戦にあっても敵の状況を見抜き、的確な戦いをする知恵を、身に付けることなのである。
 判断力と知恵は、ともに心の中に、まとまって在らねばならない。そこが、人の正しき行いの全ての大本なのだから」
長尾剛著 西郷南洲翁遺訓 191~196ページ

――――――――――

「学問とは、『あらゆる現実に対処する判断力を身に付ける』ために、ある」、子どもたちに伝えたい言葉です。
が、しかし、
子ども、、、
特に男の子は親の言うことは聞かないわけですよね。

我が息子、小・中とガラスのような壊れやすい性格のためいじめにもあっていましたが、乗り越えたと思っていました。
ここに来て「壁」にぶつかっているようです。

人間不信と孤独というジレンマ。

会社の人からもアドバイスを受けたようですが、何かすっきりしないようで、わたしに思いをぶつけてきました。

その中で、わたしも知らなかった中学時代の屈辱的ないじめの体験を話してくれました。
わたしの記憶では、中学1・2年はひどい担任でしたし、クラスも荒れていました。
「なんだよ、何見てんだよぉ」と生徒に食って掛かるような教師でしたが、生徒にはからかわれていました。

息子の話を聞きながら、若者特有の悩み、と済ませられない危険なものを感じて、一瞬オロオロしてしまいました。
でも、わたしの中に全てを受け止めようという気持ちが起きて、AKBのまゆゆが引きこもりだったことから始まって(本当かどうかは知りませんが)、世の中には一歩も外に出ないで過ごしている人もいる、そういう子たちから見たら、毎日遅刻しないように一生懸命仕事に通うこと自体すごいことだよ、と誉めてあげました。

歴史に関心があり、弁慶を尊敬すると言っていたので、鎌倉幕府の起こりや、頼朝と義経の関係などを話して聞かせました。
熊谷直実が涙ながらに敵将の平敦盛の首を落としたことや、特攻隊を主導した大西瀧治郎が介錯を断り自決したこと、10時間耐え抜いた最期などの話をしながら、何が息子の心に刺さったのかはわかりませんが、いつものように、また(笑)ゲームを始めました。

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