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英雄らしくない惨めな秀吉の最期 [雑学としての歴史]

本日は、1598(慶長3年) 秀吉の死です。

秀吉は第二次朝鮮出兵、慶長の役の途中で病死してしまいました。

秀吉は足軽から身を起こし関白太政大臣として日本を統一した戦国時代の英雄です。
信長に仕官し、国を想い奔走した秀吉、墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城水攻め、中国大返しなど、機知に富んだ策略で天下人となりました。

その秀吉の死は、英雄らしくない哀れな最後でした。
「秀頼を頼みます、頼みます」と前田利家や徳川家康たちに泣いて頼みながら亡くなっています。
豊臣家を存続させることだけを願った、惨めで情けない最期、時代劇に登場する秀吉はこの部分が強調されています。

秀吉は若い頃から側室が多かったようですが、一人も子どもに恵まれず、渡部昇一氏は、秀吉が淀君に男の子を生ませたことが、彼の知力を曇らせた、と指摘されています。
老衰も始まっていたのでしょうね。

若い頃の秀吉は、機転がきき思考は柔軟、このことが数々の功名立志伝として伝えられてきました。
渡部昇一氏は次のように述べています。

秀吉にはある種の“明るさ”があった。 秀吉は北野に大茶会を催し、聚楽第に後陽成(ごようぜい)天皇の行幸を仰ぎ、醍醐に花見し、金銀を気前よく分け与えた。信長は比叡山を焼き、高野山を攻め、本願寺と戦った。秀吉は比叡山延暦寺も高野山金剛峯寺も再興し、本願寺を優遇した。大仏を建てたことも昇平(しょうへい)の気分を世の中につくり出した。刀狩りを行って農民の武器を取り上げ、その鉄を大仏殿に使ったのは象徴的でさえある。 渡部昇一著 読む年表 日本の歴史より


明治天皇は、秀吉を「皇威を海外に宣べ、数百年たってもなお彼を寒心させる、国家に大勲功ある今古に超越するもの」であると賞賛する沙汰書を下されたそうです。
また大正時代に入ると、国家の平定、対外的な国威発揚、聚楽第行幸の際など、皇室尊崇の精神が評価されたということです。軍国主義の時代、ということもあるのでしょうね。

晩年の秀吉は、後継者としていた甥の秀次を、秀頼が誕生したことで切腹させ、その遺児、正室、側室、侍女合わせて三十名を処刑しました。
ただただ豊臣家を残すためでした。
年老いて生まれた秀頼が、秀吉の晩年を歪めてしまったのでしょうね。

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