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雑学としての歴史 ブログトップ
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「幽玄の美」足利義政の慈照寺建立 [雑学としての歴史]

本日は1482年足利義政の慈照寺建立です。
慈照寺は別称「銀閣寺」と呼ばれている寺院です。

義満が建てた金閣寺が、きらびやかな誰もがわかる美であったのに対して、義政が建立した銀閣寺は「しぶさ」と高尚な美を表現していると言われています。

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天下の大乱 応仁の乱 [雑学としての歴史]

本日は応仁の乱です。

応仁の乱は、室町時代の応仁元年(1467)に発生し、文明9年(1477)まで続いた内乱です。

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皇位を狙った足利義満の急死 [雑学としての歴史]

1408年足利義満の急死になります。
足利義満は足利幕府を開いた尊氏の孫にあたり、南北朝の統一によって再び幕府に権力を集中させました。

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南北朝の統一 [雑学としての歴史]

本日は、1392(明徳3年)南北朝の統一になります。

南北朝時代は日本の歴史で朝廷が南北に分立した時代でした。
この時代は南北朝という二つの朝廷の争いだけではなく、天皇中心の公家社会の復古を願う南朝と武家を中心とした新しい勢力としての北朝の戦いでもありました。

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湊川の戦いと南北朝成立 [雑学としての歴史]

本日は、1336(建武3年)湊川の戦い・南北朝成立になります。

湊川の戦いは、摂津国湊川(現在の兵庫県神戸市中央区・兵庫区)で行われた、足利尊氏・直義兄弟らと、後醍醐天皇方の新田義貞・楠木正成軍との合戦になります。

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南北朝対立のきっかけとなった、足利尊氏の反乱 [雑学としての歴史]

今回の歴史は、1335年足利尊氏の反乱になります。

もともと足利尊氏は自分も武家の頭領となって幕府を開くという野心を持った人でした。
尊氏は、源頼朝のようになるべく政治の実権を握り、後醍醐天皇の皇子護良(もりなが)親王はそれを阻もうとしますが、阿野廉子の讒言(ざんげん)などにより護良親王を鎌倉に幽閉した後殺害しました。


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後醍醐天皇の「建武の新政」 [雑学としての歴史]

本日は「建武の新政」になります。

「建武の新政」とは、鎌倉幕府滅亡後1333年に後醍醐天皇が「親政(天皇自らが政治を行うこと)」を開始した政権をいい、1334年に定められた「建武」の元号に由来し「建武の中興」ともいわれます。

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1333年 鎌倉幕府滅亡 [雑学としての歴史]

本日は鎌倉幕府滅亡です。

歴史上は「1331年 元弘の乱」から、「1333年 鎌倉幕府滅亡」までの後醍醐天皇を中心とした勢力の、鎌倉幕府討幕のための戦乱期の話になります。

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稽古の君の正統論 後醍醐天皇 [雑学としての歴史]

本日は、1318年文保2年 後醍醐天皇即位です。

なぜ、この後醍醐天皇即位が歴史上注目されるかというと、鎌倉幕府の樹立によって政治的実権を武家に握られた朝廷が、宋学の正統論を根拠として、後醍醐天皇は正統を守るためには幕府を討つしかないと考え「討幕復古」の計画を立てたからです。

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元寇 勇敢に戦った日本武士軍 [雑学としての歴史]

本日は元寇です。

元寇は、蒙古襲来ともいわれ、当時大陸を支配していたモンゴル帝国及びその属国である高麗王国(朝鮮)が、2度にわたって日本を襲撃したことを指しています。
主に九州が戦場となりました。
1度目は文永の役と呼ばれ1274年、2度目を弘安の役と呼び1281年に起きています。

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