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ジュール・ブリュネ フランスから来たサムライ [雑学としての歴史]

「アナタ上野デ負ケマシタ タガ弱クアリマセン」

読売新聞の日曜版「名言巡礼」、野口武彦著「幕末気分」からの引用の言葉です。

フランスの軍人ジュール・ブリュネの言葉です。
トム・クルーズ主演の映画、「ラストサムライ」のモデルとなった人物、ということです。

ジュール・ブリュネは、フランス陸軍の士官で、江戸時代の徳川幕府方の近代化を支援するために派遣されたフランス軍事顧問団の一人です。

1868年7月、戊辰戦争の一つである上野戦争で幕府の彰義隊は壊滅し、敗残兵は榎本武揚(たけあき)の艦隊に合流しました。
旗艦「開陽丸」に乗り込んでいたブリュネは、冒頭の言葉で激励したということです。
これは「彰義隊戦史」の寺沢正明「一生一話」から引用したということが紹介されています。

「アナタ上野デ負ケマシタ タガ弱クアリマセン。コレカラ私ト蝦夷イキマス。薇(わらび)ノ根タベマス」

「薇(わらび)ノ根」と言う言葉は、「信念のためには命を捨てることもいとわぬという「史記」首陽山の故事ということです。 

【引用】
ブリュネはこの前年、幕府が招いた軍事顧問団の副団長として来日。29歳のエリート軍人は幕府軍の洋式化に尽力したが、イギリスに支援された官軍の優勢は揺るがず、顧問団には帰国命令が下る。だが彼は自分を頼る教え子の将兵を見捨てなかった。辞表を提出し、日本人に対する信義を守るため、捲土(けんど)重来を期して北へ走る反政府軍に身を投じた。

榎本軍は一時、北海道南部を制圧する。だが1868年12月28日(旧暦11月15日)、開陽丸は江差沖で暴風雪にあおられ座礁。無二の巨艦を失い函館戦争の帰趨は決した。官軍は陸海から反攻を本格化し、五稜郭にこもる榎本らは翌年6月降伏。直前に脱出したブリュネは本国送還に。その後普仏戦争に参加、陸軍の幹部を務め、波乱の軍歴を閉じた。

「来年三月帰リマス。其ノ時アナタ上野花見マス。楽シミマスカ、酒ノミマスカ、喜ビマスカ。私思ヒマセン。アナタ涙出マスアル」。
開陽艦上、ブリュネが言葉を継ぐと若き侍たちは涙をこぼした。

戦に明け暮れた彼に上野の桜をめでる日々などあったろうか。それは彼が心に描いた花だったろう。
読売新聞日曜版11月27日1面(柴田文隆)

野口氏がブリュネを知ったのは、幕府軍が慶応3年末に江戸の薩摩藩邸を焼き討ちした際に砲撃を主導した士官としてだったそうです。その後も幕末の資料を読むと、重要な場面に登場していることに気づき「幕末気分」の最後にブリュネのエピソードを入れたということです。
また、「ラ・ミッション―軍事顧問ブリュネ―」を書いた佐藤賢一氏は、ブリュネが映画「ラストサムライ」のモデルであることを知り、さらに興味がわいたということで次のように述べています。

「旧幕府軍に味方をして得することは一つもないのに、自分を慕ってくれる者の力になりたい、という一心で戦場に駆け付けたのがブリュネでした。義理や人情で負け戦に挑むってすごく日本的じゃないですか」

ブリュネは、明治維新後は日本の使節より日本刀を贈答されました。
また、日清戦争では日本に貢献したことから、1895年(明治28年)に明治政府から勲二等旭日重光章が授与されています。これは明治政府で閣僚となっていた榎本武揚の上奏があったからと言われています。

参考引用元:ジュール・ブリュネ


沈没した開陽丸はオランダに残っていた設計図を基に、1990年、地元の有志達で復元されたそうです。
排水量2590トン、長さ73メートル、幅13メートル、16センチクルップ砲18個。
大きな船だったようです。

幕末にフランス軍人が関わっていたとは!
こういうことも歴史の事実として子供たちには教えてほしいですね。

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