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朝鮮半島での快進撃 文禄の役 [雑学としての歴史]

本日は、1592(文禄元年)文禄の役、朝鮮出兵です。
秀吉の朝鮮侵攻については諸説あるようですが、一般的には大明帝国の征服、とみられています。

秀吉が大陸に関心を持つきっかけとなったのは、イエズス会の侵入が大きく関わっているのではないか、とわたしは思っています。九州・対馬、その先の朝鮮と明、さらにその先の西洋、そういうイメージがあったことは確かだと思います。

天下統一を為した秀吉は、天正15年、対馬の宗家を呼んで「明に侵攻するため朝鮮を通るから、朝鮮に行って話をつけよ」と命じています。そして朝鮮に「来朝して天下統一の祝いの言葉を述べよ」と伝えるよう命令しました。
宗義智の尽力によって朝鮮通信使が来朝しましたが、秀吉は国王が来ないことを不満に思い、国書も秀吉の天下統一を祝うだけでそれ以上のものではなかったので、宗義智や小西行長は、この通信使の来朝を「服従の証」と言いつくろった、ということです。
つまり、秀吉は朝鮮に服従を迫ったが、朝鮮側は秀吉を相手にしませんでした。

秀吉は天正19年(1591)3月、配下の西国諸大名を集め遠征軍を立ち上げ、朝鮮出兵命令を出しました。
この時秀吉の念頭にあったのは明に入ることだけでした。
朝鮮に上陸した日本軍は快進撃を続け、日本の進軍の速さに、明では朝鮮が案内をしているのではないかと疑ったほど、ということです。

日本の弱点は海軍で、日本の場合軍隊というより、輸送船団という形であったため、戦闘に備えた組織作りがなされていませんでした。そのため、指揮官不在で仲間割れを起こすこともあったそうです。
船には食料を積んでおり、朝鮮水軍に攻撃を受けて足止めされました。

陸上では明軍の攻撃に日本軍は鉄砲で応戦し、明軍は総崩れになって逃げていくのですが、食料が届かないため日本軍の士気は落ち、小西行長と宗義智は秀吉に無断で朝鮮と和平をはじめようとします。
小西行長は、明の勅使・沈惟敬(しんいけい)を信用し、ひとまず休戦状態にしようと、斥候も出さず、偵察も防備も怠っていました。

そこへ李如松(りじょしょう)率いる明軍が総攻撃をしかけてきました(文禄2年1月8日)。
平壌城のに立てこもる小西行長軍は約1万5千、明軍は4万5千、3倍の軍事力の差でした。ついに城の食糧庫に火が入ると、小西軍は冬季で結氷していた大同江(だいどうこう)を渡って逃げています。この小西軍の「平壌の戦い」が陸上で日本唯一の敗戦でした。

朝鮮の自然環境は厳しく、冬の準備を十分していなかった日本軍は、疫病などで毛利輝元が病に倒れ、秀吉の養子秀勝(ひでかつ=秀吉の姉の子。信長の四男秀勝とは別人)は巨済島で病死しています。
この頃の日本軍は次第に追い詰められていきました。

ここで日本軍は、京城に結集し敵を碧蹄館(へきていかん)で待ち伏せします。
「受碧蹄館の戦い」ですが、日本軍は明軍を引き付けて銃撃し、斬り込んでいきました。
また、一斉射撃と言う戦術を知らなかった明軍は、鉄砲による攻撃で大打撃を受け総崩れとなります。大将李如松は落馬し、部下に助けられて命からがら逃走しました。

しかし、食料もなく、痛手を負った日本軍には厭戦気分が漂い、石田三成から小早川隆景(たかかげ)まで大名全員の署名入りで、「日本軍も京城で餓死するような状況になっている。行長が明の使いを連れて名護屋へ行くであろう。明も講和には熱心である」という手紙を秀吉に送りました。
ここでようやく日本軍は撤退することになりました。
約1年の戦いでした。

どちらにも決定的な戦果がなく、特に朝鮮半島が主戦場となったこの戦いは、16世紀における国際的な戦争としては最大規模とされています。
勇敢に戦った日本軍のイメージは、明や朝鮮に深く刻まれることになります。

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