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戦国時代 下剋上の中から日本らしい変化 [雑学としての歴史]

諸説あるようですが、1467年の応仁の乱から1600年の関ヶ原の戦いまで約130年を戦国時代と呼んでいます。

応仁の乱以降将軍家の権威は地に落ち、室町幕府によって保障されていた守護大名の影響力は低下していきました。
支配下にあった者や新興の実力者などが新しい権力階級にのし上がり領国を統治していくことになります。中には家臣が上の者を追放する「下剋上」なども起こり、小田原の北条早雲、美濃の斎藤道三などの新しい戦国大名が次々に誕生しました。

ちなみに斎藤道三は、下克上大名の典型と言われ、僧侶から油商人を経て戦国大名にまで成り上がった人物です。
一説には「戦国時代の暴れん坊」ともよばれているようです。
北条早雲は、室町時代中後期(戦国時代初期)の武将で、後北条氏の祖と言われています。早雲の活動は東国の戦国大名に影響を与えました。

この時代は、朝廷にも大きな影響をおよぼしています。

明応9年(1500)、五土御門(ごつちみかど)天皇が亡くなられたときは、続く戦乱で朝廷は葬式を出す費用もなかったそうです。亡くなってから四十余日、遺体は御所にずっと置かれたままでした。

喪中に践祚(せんそ=三種の神器を受継ぐ即位)した後柏原天皇の即位の礼を行うことすらできませんでした。践祚されてから22年、足利幕府や本願寺からの献金によって、ようやく即位式が行われたということです。
その次の後奈良天皇が即位の礼を行ったのは、践祚から10年後、その次の正親町(おおぎまち)天皇は3年後ということです。
正親町天皇のときは毛利元就が金を出したと言われています。

践祚から即位の礼までの期間が少しずつ短くなっていることについて渡部昇一氏は、戦乱が長引く中で次第に地方の大名が皇室に対する関心が高まっていったのではないか、皇室を立てようとする動きが出てきたのではないか、と指摘しています。

室町幕府は15代足利義昭まで続いていますが、9代将軍足利義尚(よしひさ)以降は名ばかりの将軍でした。地方の豪族たちは当てにならない将軍よりも、「その奥に不変なものが存在するのではないかと気づいた」ということです。
こういうことから、天皇に対する意識が高まっていくことになります。
また、生活に困窮した公家たちが地方に移り、禅宗の僧侶たちは乱を避けて各地を回るようになっていました。このことは地方に京風文化の流入と新しい文化を興させ、地方における信仰心の高まりにもつながっていきました。
これは応仁の乱のプラス面と言えます。

戦国時代も末期になると、上杉謙信・織田信秀(信長の父)、毛利元就など、天皇家に寄附や献金をする武士が現れてきます。日本を再統一するためには京都へ出て、天皇の後ろ盾を得て戦う方が最良の方法だという、明確な目的を持つ武将も出てきています。

それを最初に実行しようとしたのが駿河・遠江国(とおとうみのくに)の守護大名今川義元でした。後に義元は、今川領国の秩序維持を行っているのは足利将軍家ではなく今川氏そのものであるとして、室町幕府との関係を完全に断ち切っています。「自らの実力によって領国を統治する戦国大名である」ことを宣言し、自分こそ上洛して乱世を立て直す人間だと考え、国内再統一に向けて動き出しました。
そこに立ちはだかるのが、皇室尊重派である織田信秀の嫡男信長ということになります。


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