清々しい季節ですね。
先日の昭和の日は多摩・武蔵野御陵に行ってきました。
新緑の森は人影もまばらでしたが、団体の方々も訪問に来られていました。
いつ行っても懐かしい場所です。
入り口付近
昭和天皇陵
表参道の両側には北山杉がそびえ立ち足元にはヒメシャガが植えられています。
さて海音寺潮五郎という作家は初めてなのですが、史伝「西郷隆盛」には、幕末の尊王思想には朱子学の影響があったということが書かれていました。
朱子学は鎌倉幕府末期、後醍醐天皇の「建武の新政」に大きく影響を与えた学問です。
後醍醐天皇は朱子学の大義名分を主張することで、北条幕府を倒し朝廷に権限を取り戻しますが、すでに武士の時代の流れに逆らうことはできず、わずか3年で瓦解してしまいます。
その後は南北朝の対立や応仁の乱勃発など戦国時代に突入して行くのですが、天皇家もまた苦難を強いられていたことは渡部昇一氏の著書でも明らかにされています。
江戸時代に入り世の中が平和になると、家康は学問を奨励し学者もたくさん現れ学問が盛んになっていったということです。
家康は、読書家ではなかったようですが、学者を呼ぶなどして鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」を読ませています。家康は政権運営という実用的な目的の為に研究したようです。
統治という観点からも各大名に学問を奨励し、当時は政治学だと思われていた儒学が中心となっており中でも朱子学は人気があったということです。
海音寺は、尊王を思想として確立させたのが朱子学だと見ているようです。
徳川御三家の一つである水戸光圀は熱心な尊王家で、光圀が編纂した「大日本史」は、江戸時代のすべてを費やしています。
光圀が楠木正成の碑を建立し湊川神社として再興したことも、尊王思想からきていたということでしょうか。
同じく尾張の徳川義直も「万一天皇の命によってわが家に兵を徴(め)されることがあったら、いつでも官軍として立つべきである。大名と言うものは朝臣であって、幕府の家来ではないのだから」(軍書合艦)と残しており、尊王論者になっていた、としています。
加賀の前田綱紀も尊王家で楠木正成を崇拝していたとあり、海音寺は「何しろ270年かかって植えこんだ観念」と書いています。
水戸藩の「大日本史」編纂をそのような観点で見ることもできるというわけです。
このように江戸時代「高級インテリ層」と海音寺は表現していますが、幕府の中核となる人物の間に自然な形で尊王論は広がっていたということが書かれていました。
幕末には黒船来航や西欧諸国の船が頻繁に日本近海に現れるという危機感から、尊王論による国家再統一の必要性があったと、海音寺は述べています。
ちなみに、1858年、江戸幕府が欧米列強と結んだ「安政5ヵ国条約(日米修好通商条約・日蘭修好通商条約・日露修好通商条約・日英修好通商条約・日仏修好通商条約)」によって横浜や神戸、函館などに続き、現在の中央区明石町にも外国人しか住めない「築地外国人居留地」があったということが、以前、読売新聞で紹介されていました。
当時の光明天皇はこの条約に対して勅令を出さず、大老井伊直弼の独断で行われたのですが、このことが安政の大獄や井伊直弼暗殺の引き金となり、討幕の動きが加速して行ったこともうなずけます。
東京の居留地は維新直後の1869年に開設されていますが、治外法権が認められ、キリスト教の宣教師や商人など約3000人余りが住み、9ヵ国の公使館や教会が集まる「日本の中の外国」だったということです。
残念ながら築地居留地は1923年に起きた関東大震災によって壊滅したそうです。
海音寺潮五郎は同郷の英雄西郷隆盛が「西郷のことが好きで好きでたまらないから」ということもあり、西郷執筆はライフワークだったようです。
海音寺潮五郎は昔の作家と思っていましたが、帰納法的な話は説得力があり、事実が知りたいと思うわたしは興味をそそられます。
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