SSブログ

スポンサードリンク

秀吉の天下統一と家康 [雑学としての歴史]

天正13年(1585)、秀吉は朝廷から関白の宣下があり、翌年、太政大臣に任ぜられて豊臣姓を賜りここに豊臣政権が誕生しました。

秀吉は国内平定に向けて紀州の根来・雑賀(さいが)衆、高野山を制圧し、四国の長宗我部元親(もとちか)、越中の佐々成政を討ち配下に治めました。最大の難敵は徳川家康でしたが、妹朝日姫を嫁がせて「義理の兄弟」という関係にしたうえ、母親の大政所を人質として差し出しました。
家康は止む無く秀吉に臣下の礼をとり従わざるを得ませんでした。

ここで秀吉は天正15年(1587)、本格的に九州征伐に向かいます。九州では島津義久が九州攻略を続け勢力を拡大していました。秀吉は20万の大軍を送り島津家を降伏させることに成功します。

九州平定後、イエズス会による問題が発覚しました。強制的なキリスト教への改宗や神社仏閣の破壊といった神道・仏教への迫害、またポルトガル人が日本人を奴隷として売買するなどといったことが九州で行われていたのです。
秀吉はイエズス会準管区長・ガスパール・コエリョに抗議し、博多においてバテレン追放令を発布しています。
しかし、この時点では九州のキリシタンは黙認されていました。

さて、天正15年、華美を極めた聚楽第が完成し、後陽成(ごようぜい)天皇を迎えて大規模な茶会が催されました。公家・諸大名のほか身分の上下なく各地から大勢の人が参加したということです。

秀吉の聚楽第でのエピソードを一つご紹介します。
秀吉は17年、聚楽第で「金配り」と称し、皇弟(天皇の弟)と信雄と家康には金1千両・銀1万貫、秀長に金3千両・銀2万貫、秀次には金3千両・銀1万貫等、大名や公家に総計36万5千両もの大判小判を惜しみなく配ったとされています。
秀吉は「多くの金銀を積むも、用いざれば瓦や石に同じ」と、宝はみんなで分け合おうと言っています。
無頓着な秀吉です。

翌18年、秀吉は最後まで従わなかった小田原の北条氏を攻めました。
秀吉の軍勢は26万とされ、大海軍部隊も動員しての攻撃となりました。
小田原城は難攻不落の城といわれ、北条氏は籠城して抗戦しますが、北条氏直は自分以外の将兵の助命を条件に降伏しました。
秀吉も家康も北条軍の戦いぶりに感銘を受け、徳川時代以降も氏直の家は残り、その子孫は明治天皇の侍従になっています。
こうして北条氏は滅び、秀吉による天下統一がなされました。

秀吉はほどなく小田原城に入城し諸将の論功行賞を行いました。
ここで秀吉は難敵である家康を関東に封じ込めています。
家康に与えたのは北条の関八州のうち伊豆・相模・武蔵・上総・下総・上野の六国で、下野・安房を支配下に置かせました。
問題は、家康の先祖代々の土地三河などの旧領をすべて取り上げたことでした。

家康の家来たちはこれに腹を立てますが、家康は承知し関八州をもらって箱根の山の向うへ赴きました。
こういう家康の我慢強さは、当時も今も人物として傑出したところ、ということでしょうか。

今のわたしたちは家康の功績を知っているので、この時の家康に武将としての底知れなさを感じます。

nice!(3)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 3

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

広告スペース
Copyright © シニカルを目指すわたしの雑学 All Rights Reserved.

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。