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秀吉と家康の対決 小牧・長久手の戦い [雑学としての歴史]

小牧・長久手の戦いは、1584年(天正12年)、秀吉と信長の次男信雄(のぶかつ)・家康との間で行われた戦いです。

本能寺の変の後、明智光秀を討った秀吉は、翌年の初夏には柴田勝家を滅ぼしています。
これにより秀吉は信長よりも広大な領地を獲得しました。
秀吉は、同天正11年11月には大阪城を築き始めています。

ここで起きたのが、小牧・長久手の戦いでした。
秀吉と家康は表向き友好関係にあったのですが、秀吉との関係が悪化した信雄(のぶかつ)が家康を頼ってきたのです。家康は信雄の後見人として秀吉に対し挙兵します。

秀吉にとって信雄は主君の子であり、家康は主君・信長と同盟関係にあった人物です。二人が連合して敵対してくるので秀吉にはやりにくい戦でした。
そのため秀吉は家康に先手を取られ、要害の地である尾張の小牧山を占領されてしまいました。

双方にらみ合いが続きますが、秀吉の配下・池田恒興と森長可(ながよし)は徳川の後方を奇襲する作戦に出ます。家康はそれをいち早く察知し池田・森両軍を長久手で全滅させています。秀吉にとってはかつてない敗北となった戦いでした。

両軍とも鉄砲を持っているので、無理をせず、小牧での戦いは一進一退の攻防が続きました。
「このまま睨みあっていてもしかたがない」と秀吉は考え、家康も「戦場で秀吉と戦うのはたまらない」と清州城に籠もってしまいます。

そこで秀吉は軍を小牧山に置いたまま、大阪城に戻るのですが、素早く織田信雄領の伊賀・上野に攻撃目標を変えました。秀吉は信雄がいる伊勢長島城を囲み、和睦を呼び掛けたところ、すでに疲労困憊していた信雄側は無条件でこれを受け容れたということです。

秀吉は恭しい態度で講和を結んだと言われています。
信雄を助けるという目的で立った家康は戦う理由を失ってしまい、家康は烈火のごとく怒ったとされています。

若いころの秀吉は一つのことに拘らない柔軟な発想が目立つと渡部昇一氏は指摘されています。

小牧・長久手の戦いは形としては家康が有利に進めた戦でした。
しかし秀吉が家康に講和をもちかけたときは、家康の同盟であった信雄の所領は秀吉に占領されており、家康は嫡男・於義丸(おぎまる)と重臣石川数正(かずまさ)の息子を人質に差し出さざるを得ませんでした。その後秀吉は於義丸を養子にし、羽柴秀康として河内一万石を与えています。

まだ、家康の出番ではないということでしょうか、家康の忍耐が続きます。

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