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本能寺の変 今も謎、信長を討った光秀の心のうち [雑学としての歴史]

1582 天正10年 本能寺の変。

本能寺の変(ほんのうじのへん)は、1582年6月21日(天正10年6月2日)、備中高松城包囲中の羽柴秀吉を救援しようとしていた織田信長に対して、先発させた家臣明智光秀が謀反を起こして丹波亀山城から引き返し、京都の本能寺に宿泊していた信長と妙覚寺に宿泊していた当主の織田信忠を襲撃したクーデター(事変)である。寝込みを襲われて包囲された信長は脱出を諦めて自害を迫られ、信忠は二条御所に退いて戦ったがやはり自害した。代表的な下克上の1つ。光秀が反旗を翻した原因については定かではなく、多くの歴史家が研究しているが、現在でも定説と呼ばれるものは確立されていない。光秀の恨みや野望に端を発するという説、光秀以外の首謀者(黒幕)がいたとする説も多数あり、日本史上の大きな謎の1つである。

Wikipedia:本能寺の変

本能寺の変は歴史を大きく揺るがした事件であるにも関わらず、定説が確立していない歴史上のミステリーとなっています。

ですが、そこに新たな説を唱える方が出ています。
明智光秀の子・於寉丸〈おづるまる〉の子孫で、「本能寺の変431年目の真実」(文芸社)の著者、明智憲三郎氏です。
最近テレビ番組でも紹介されていました。

明智氏は、祖先の研究を始めたのは20歳頃ということで、一つの歴史本がきっかけだったということです。
「上司(織田信長)にいじめられて殺すなんてそんな浅はかなことをする祖先だったのか」
そう思ったようです。
しかしその本には、御恨説は「後世の軍記物による作り話だ」と書かれていて希望を持ったということでした。「じゃ、何だったの?」という思いから、真実を求めて研究者の本を読み漁ったということです。
でも「読めども読めども納得いかなかった」と述べています。

詳しくは以下のサイトで読むことができます。

“明智光秀”子孫が語る「本能寺の変」(1)信長による家康討ちが発端
“明智光秀”子孫が語る「本能寺の変」(2)長宗我部征伐で身の危険が
“明智光秀”子孫が語る「本能寺の変」(3)明智姓を名乗ってるのはほぼいない
明智光秀の子孫が新解明する「間違いだらけの織田信長」

少し紹介すると、信長について次のように述べています。

信長は戦争に関しては孫呉の兵法を用いたが、政治には『韓非子』の論理を使ったと思われます。韓非は春秋戦国時代の諸子百家の一人で、孔子や孟子などの儒教的精神とは対極の存在。秦の始皇帝が心酔し、彼を重用しました。簡単に言うと、覇王として勝ち残る方法が書かれてあるのです。


謀反を起こした理由について、

自分の一族が信長に滅ぼされると悟ったからでしょう。『韓非子』に『ずるい兎が全て狩られれば猟犬が煮て食べられる。同じように敵国が滅びれば謀臣が殺される』という一節があります。戦国武将にとって、一族が続くことは天下を取ることと同じ比重で重要でした。当時は主君の死後、その一族は有力な家臣に滅ぼされるのが常だった。そのため、有力武将は遠国へ移封されるか滅ぼされる。信長はイエズス会の宣教師に、中国の明を征服する予定だと述べています。


この計画によって信長は、自分の一族を滅ぼしかねない有力武将を中国へ送り込むことができる。すなわち高齢の光秀に代わって、息子たちが中国へ行くことになる。恐らくもう帰ってこられず、光秀一族は中国で滅亡することになる。光秀はそう悟り、謀反を起こしたというのが最も妥当です。


個人的に、この個所は、秀吉による朝鮮出兵は、信長の時代に中国平定という計画があったからではないのか、と思う部分です。

明智光秀が娘婿の細川忠興にあてた手紙が残っているそうです。
「自分がこのようなことをしたのも忠興のためである。あとは忠興とガラシャ(光秀の娘)の子(すなわち自分の孫)にまかせたい」
以上を読んでも、明智氏の説明は納得がいきます。

光秀の謀反が計画的なものではなかったことは、最も信頼していた忠興も、その父藤孝(幽斎)も動かず、あてにしていた武将は誰も味方しなかったことからも明らかです。

明智光秀は直前に連歌の会を催したとされています。その時の様子は、簷(のき)からは梅雨がしたたり、天は真っ暗だったと。そして粽(ちまき)が出されると、光秀はその皮(茭:こう)を取らずに食べ、突然、「本能寺の溝の深さはどれほどか」と聞いたので、一座の者は妙な印象を受けたということです。
これは江戸時代後期の思想家・頼山陽(らいさんよう)が著書「日本楽譜」の本能寺で記しています。

【引用】
本能寺 溝(ミゾ)ハ幾尺(イクシャク)ゾ  
吾ガ大事ヲ就(ナ)スハ今夕(コンセキ)ニ在リ  
茭粽(カウソウ)手ニ在リ茭(カウ)ヲ併セテ食(クラ)ウ  
四簷(シエン)ノ梅雨 天ハ墨ノ如シ  
老坂(オイサカ)ヲ西ニ去レバ備中ノ道  
鞭(ムチ)ヲ揚(ア)ゲテ東ヲ指セバ天猶(テンナホ)早シ  
吾ガ敵ハ正ニ本能寺ニ在リ  
敵ノ備中(ビッチュウ)ニ在ル 汝能(ナンジヨ)ク備ヘヨ  

     本能寺溝幾尺
     吾就大事在今夕
     茭粽在手併茭食
     四簷梅雨天如墨
     老坂西去備中道
     揚鞭東指天猶早
     吾敵正在本能寺
     敵在備中汝能備

(中略)

 真偽のほどは不明だが、事を起こす前の光秀の放心状態をよく示していると思う。それから老坂で東に向かうことになるが、まだ東の空は暗い(天猶早)。そして敵は本能寺にいるのだが、もう一人の敵は備中にいる秀吉だと言っている。名詞だと思う。
渡部昇一著 読む年表 日本の歴史 108~109ページ

Wikipediaには、信長が本能寺で落命する直前の勢力図など克明に記されていますが、この本能寺の変における光秀の真意はまだ謎に包まれていて、光秀の子孫明智憲三郎氏の著書を通して解明されていくのでしょうか。

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