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「不言実行の人」 山本五十六 [雑学としての歴史]

「やって見せ 説いて聞かせて やらせてみ 讃(ほ)めてやらねば 人は動かぬ」
真珠湾攻撃を立案指揮した連合艦隊司令長官・山本五十六の言葉です。
読売新聞の「名言巡礼」で紹介されていました。

記事では、この言葉は山本が自ら書き残したものとしては見つかっていないと書かれていました。
故郷である新潟県長岡市の曹洞宗堅正寺の住職が友人だった山本の信条として講和集で紹介した内容だということです。

「馬鹿な奴をおだてると云うことではなく、共に喜ぶことなのであります」
住職はそう解釈して講和したのだそうです。

山本五十六
1884~1943年、越後長岡藩で代々儒学を教えた高野家に生まれる。父が56歳の時の子であったため、五十六と名付けられた。旧制長岡中学から海軍兵学校に進み、日本海海戦で左手の指2本を失う。その後、旧長岡藩の家老・山本家を継いだ。米国駐在武官としてアメリカの国力をつぶさに見る。海軍航空本部長に就任。日米を戦争へと向かわせる日独伊三国同盟に強く反対した。(読売新聞7月16日)

真珠湾への鮮やかな勝利から半年、日本軍はミッドウェー海戦で中国戦線から歴戦の優秀なパイロットを失うなど、日米の形勢はミッドウェーで逆転してしまいます。
山本五十六の言葉はそういう戦局が思うようにいかない中での、無念の胸中だったのかもしれない、と記事には書かれていました。

ある郷土史家の話で「(山本は)越後の男らしく不言実行が美学の人。だから思いが十分伝わらないこともあった」と紹介していました。
Wikipediaで調べてみても、山本五十六はいろんな言葉を残しているんですね。

【引用】
「死を以て責に任ずるという事は、我が武士道の根本である。その考えが腹の底にあればこそ、人の長としても御勤めができる。そういう人が艦長に居ればこそ、日本海軍は大磐石なのだ。水城大佐の自決は立派とも言えるし、自分としては当然の事をやったとも考えて居る。君の様な唯物的考えは、今時流行るのかも知れぬが、それでは海軍の軍人として、マサカの時に役に立たぬぞ」

「私も煙草は好きだが、日本の為だ。君ばかりに止めてはおかぬ」

「大尉にもなって自分の長所短所が判然と分らぬようでどう修養するつもりか。真実なら自分のことは自分が一番よく知っているはずだ」

「そもそも帝国海軍のこんにちあるは、肉迫必中の伝統的精神にある。今後、1メートルたりとも射距離を延ばそうとすることは絶対に許さん」
引用元:山本五十六

最初に紹介した言葉は以下のような続きがあります。

話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。
やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。
引用元:山本五十六名言集

軍人というより教育者のような言葉が多いですね。

記事の後半には長岡藩の上席家老河井継之助が紹介されています。
河井継之助は、戊辰戦争で薩長を中心とした新政府軍と戦った指揮官です。河井はぎりぎりまで戦争回避に向けて奔走しますが、決裂すると自ら先頭に立って戦ったということです。
新政府軍との攻防戦で長岡城は跡形もなく失われてしまいます。
このため河井継之助の評価は分かれ、長岡を荒廃させた張本人として非難する声もあるようです。

そういう河井と山本は、生き方が似ていると記事には書かれていました。
山本は河井の言葉や姿勢に言及しており、郷土の武人として尊敬していたようです。
二人には批判的な見方もあるが、長岡で河井継之助と山本五十六は並び立つ「傑物」、としていました。
今回の名言巡礼は、山本五十六のリーダーとしての資質に焦点を当てたものなのですが、わたしはどうしても負の部分に目が向いてしまうので、そういう評価もあるのだ、と受け止めました。

以前、田中英道氏の「戦後日本を狂わせたOSS『日本計画』」を読んだときに、山本五十六についての記述がありました。
山本は真珠湾攻撃の7年前からハワイ攻撃を口にしていたというのです。
当時の斎藤博駐米大使との対話記録に残されているのですが、以下のように書かれています。

<俺も軍人だからね。「どうしてもアメリカとやれ」といわれれば、アメリカともやってごらんにいれたいね。・・・・俺の夢なんだからね。空母10隻、航空機800機を準備する。それだけで「真珠湾」と「マニラ」を空襲し、太平洋艦隊とアジア艦隊をつぶすことは確実にできるんだよ>
<少なくとも1年間は、太平洋にアメリカの船と飛行機が存在しないってわけさ。それだけの「戦争」はやってみせる>(春山和典「ワシントンの櫻の下」さがみや書店、昭和58年)

著書によると、1934年の9月としています。
米国の諜報機関がこの言葉を伝え聞いていた可能性と、1941年4月頃には海軍で広く噂されていたことも指摘しています。また7月に米国大使がこの情報を入手し英国政府に打電した記録が残されているそうです。

このように英米では半年近く前からハワイ奇襲攻撃の可能性を共有していたことになります。国内の海軍では「公然の機密情報」であったにもかかわらず、時の総理大臣東條英機が知ったのは12月1日の御前会議の直前だったということです。

東條英機は、戦争を避けようとしてきたためにこの作戦を知らされなかったのだろうと、田中氏は指摘しています。
開戦前夜、東條は自室で慟哭したという話に、胸が詰まる思いがしました。
重くのしかかる重圧と、重大な作戦を伝えられなかった屈辱感、陸軍主導であった戦争が海軍に先行されるという思いがあったのではないか、と書かれていました。
生真面目な東條に思いが行き同情的になります。

現代の目線で戦争当時を判断することは誤りだと思います。
ですが、やはりわたしはその言葉に軽さを感じてしまいます。
日本人は郷土意識が強いので、やはり歴史上の傑出した人物には思い入れが強いのもあるのでしょうか。
郷土史家の「不言実行が美学」という言葉にも「なんだかな」と思ってしまいます。

ちなみに我が故郷はどうか、と調べたら、現内閣の麻生太郎副総理兼財務相。
福岡県全体の話ですが、初代藩主黒田長政、関連で父は黒田官兵衛、北原白秋や古賀政男、陸軍参謀長杉山元、出光佐三、赤川次郎、五木寛之、松本清張、井上陽水、松田聖子、チューリップ、甲斐バンド、海援隊等々、かの吉田清治も福岡出身でした。

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JanPar

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