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「大化大宝」の明治憲法と憲法改正の議論 [読書]

宮崎正弘氏の対談本の2冊目、文芸評論家の小川栄太郎氏との対談で「保守の原点」という本を読んだのですが、宮崎氏が(良い意味で)こんな方だとは知りませんでした。
よく書評を書かれているので相当本を読まれているとは認識していましたが、わたしにとっては「知の巨人」でした。
まず驚いたのは、尊王思想の持ち主であることです。
敢えて言うと、容姿に似合わずです(笑)

今回の小川栄太郎氏との対談は日本の思想的な面から、「古事記」、「日本書紀」に対する見解が深く、日本固有の思想をお持ちの方、ということが分かりました。

第5章「保守は明治憲法にどうかかわったのか?」は明治憲法成立に至る過程が述べられていて、「今の日本は明治憲法のおかげでもっている」と仰っています。
どういうことかというと非常に練られたものだということです。

明治憲法は成立までに4、5年を要しているのですが、その間当時のナンバーツーであった伊藤博文をプロシアへ派遣してヨーロッパの憲法を調査研究させています。

明治憲法の大まかな方向性を描いたのは、岩倉具視や木戸孝允であり、木戸がなくなったあと大久保利通は暗殺され、岩倉具視も病の中、伊藤博文と井上毅(かたし)に憲法制定が引き継がれていきます。
それで伊藤博文はプロシアへ行くわけですが、小川氏の指摘はこのころの日本は実は非常に不安定な時期だった、ということです。
西南戦争などは一歩間違えれば国内に動乱が起こる可能性があったとしています。

そういう時に政府の主要閣僚であった伊藤博文を、憲法を作るために派遣し、トップの岩倉具視は今にも死にそうな重病だった、と。
小川氏は、「この彼らの持っていた感覚は常軌を逸していると思うくらい、鋭く深い」、そしてそのことが、「明治国家をつくる一つの巨大なエートス、推進力だった」と仰っています。

伊藤博文は「英米憲法は問題がある、プロシアの憲法の方がいい」言われて帰ってくるのですが、帰国すると今度は「古事記」と「日本書紀」に戻り綿密に調べています。この背景にはある人物の影響があったようです。

ここで宮崎氏は、日本政策研究センター代表伊藤哲夫氏の著書「明治憲法の真実」を紹介しています。

それによると、熊本藩士で儒学者の元田永孚(ながさね)はあまり知られていませんが、この元田は、「西洋流の立憲政体をそのまま導入するのは好ましくない、天皇を戴く日本の国体、国柄に合った立憲政体にすべきだと強く主張」し、憲法議論の方向性に大きく影響を与えた人物とうことです。

【引用】
明治憲法の草案作りにおいて、最大の問題は、「日本の国体をどう見定めるか」にありましたが、そこで井上は何をしたか、彼は『古事記』『日本書紀』に帰りました。それらを綿密に読み込んで、そこから国の大本をつくるにはどうしたらいいかを考えていった。井上が気付いたことで大事なのは、「うしはく」と「しらす」の違いです。この二つの言葉は意味が似ているようで実は違っている。昔、発見した人がいるのかどうかは分かりませんけど、彼はそれを発見するわけです。つまり、「うしはく」は“支配する”という意味であると。英語に置き換えれば、controlです。ところが、もう一つの「しらす」、これは“治める”という意味だと。こちらは英語に直せばgovernでしょう。
宮崎正弘 小川栄太郎 共著「保守の原点」122~123ページ

この「うしはく」と「しらす」は最近保守系の著書などで目にします。
「古事記」に次のような記述があります。
「汝がうしはける葦原中国は、我が御子のしらす国である」
以下から参考にさせていただきました。

http://sankaniokuru.blog.fc2.com/blog-entry-118.html

宮崎氏は、さらに深い日本的なニュアンスを伊藤哲夫氏の著書から引用しています。

【引用】
「『うしはく』というのは、西洋で『支配する』という意味で使われる言葉と同じである。つまり、日本では豪族が占領し私物化した土地を、権力をもって支配するようなとき、『うしはく』が使われている。それに対し、『しらす』は同じ国を『治める』という場合の意味で用いる場合でも全く違う。『しらす』は『知る』を語源としている言葉で、天皇はまず民の心、すなわち国民の喜びや悲しみ、願い、あるいは神々の心を知り、それをそのまま鏡に映すように我が心に写し取って、それと自己を同一化させ、自らを無にして治めようとされるという意味である」
宮崎正弘 小川栄太郎 共著「保守の原点」123~124ページ

当時の知識人たちの多くはフランスやイギリス型の憲法にするよう主張していますが、井上毅や元田永孚は日本の国柄に対するこだわりが強く、特に元田は「君民共治」の考え方は危険だと気付いていたということです。
「君民共治」とは天皇と民によって日本が治められる、という意味ですが、なぜ危険かというと次のように伊藤哲夫氏の著書から引用しています。

【引用】
「その背景には、当時の政府の形態を安易に『君主専制』と理解し、いずれは『民主制』が世の流れなのだろうが、わが国の国体を考えればそうもいかない。しかし、時流というものを考えればそれにさからうわけにもいかない。そこでその中間をとり、とりあえずは『君民共治』ということで乗り切っていくほかない、とする無思慮な発想があった」
宮崎正弘 小川栄太郎 共著「保守の原点」135ページ

小川氏は「ヨーロッパの君主と日本の天皇のあり方は全く違う、その違いを明確に自覚した国体の確定」が必要だった、と仰っています。
以下は宮崎氏の記述。

【引用】
明治政府の要人の中にさえ、日本の国体を君主専制と誤解するものがいた。だからそうではないことを明確にするため、日本の歴史に立ち返って考える必要があると元田は考えたわけです。伊藤さんの本に、元田が明治天皇に奉呈した意見書が掲載されてます。

「陛下の所謂立憲政体とは、英国のごとき立憲政体を云うに非ず。即ち日本帝国の立憲政体なり。日本帝国の憲法を立(たつる)には、即ち陛下の宸断(しんだん)を以て、我邦の憲法を立てるなり。其の憲法は即ち天地の公道に基づき、祖宗(そそう)の国体に由り、古今上下の民情風俗に適度したる憲法なり。是他無し、即ち推古帝の憲法を拡充し、大化大宝の制令法度を潤色(じゅんしょく)するなり」

「大化大宝」とあるのは大宝律令と大化の改新でしょう。きちんと自国の歴史を踏まえて作れと言っています。
宮崎正弘 小川栄太郎 共著「保守の原点」135ページ~136ページ

こういう議論が積み重ねられて明治憲法が制定されます。

第一条は「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」

尚、「万世一系」は岩倉具視の「王制復古議」が初出とされています。

次の第6章で「日本国憲法の正しい考え方」と題して議論されているのですが、日本には「改憲議論の土壌がない」という問題があると指摘されています。
「国会で改正の発議が戦後、一度もされていない」ということが問題だというわけです。
自民党や、読売新聞、産経新聞、西部邁氏などが憲法改正試案を出しているそうですが、どれも今の憲法を改正するということが前提になっている、これが問題だと指摘されています。

確かに、明治憲法を起草した人たちの思いから見たら、現憲法の改正ではだめだということなのでしょうね。
またそのことによって、今の「日本国憲法」がオーソドックスになってしまう、ということも指摘されています。
それは戦後憲法の改良であって、自主憲法制定ではない、いうことですが、この憲法議論は本当に煮詰めていく必要があると思いました。

明治以前の人たちは天皇を今のように身近に感じてはいなかった、というような指摘があり、これは新しい発見でした。
それで、小川氏が次のように仰っています。

草案を練る段階でわが国固有の天皇の在り方を発見した、つまり「しらす」とはcontrolではないんだということをはっきりさせた意義は、とても大きい。
宮崎正弘 小川栄太郎 共著「保守の原点」132ページ

本書で、宮崎正弘氏、小川栄太郎氏ともに、憲法改正の手続きについて「国民投票は外すべきだ」と仰っていたことは興味深かったです。

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